たまーに聞くけどさ、ベースの弦が切れるってなかなか信じられないよな

大森、ヨギーニューウェーブスにベース貸すってよ案件(知らない人はググって)からインスパイア(?)されたいくつかの考えの断片をまとめた。

 

 

この心の内側に渦巻いてるものを吐き出して、音楽や世界への愛憎をより過激な形(歌詞を含む)で表現する、という音楽の最近(ここ8年)の最前線が神聖かまってちゃん大森靖子だと思うのだけど、僕は前者は多少好きだったけどそこまでイントゥー出来なかった、というのは少し不幸かなと思ってる。

僕の10代~20代前半で「内側に渦巻いてるものを吐き出して、音楽や世界への愛憎を表現する」音楽はアートやシロップだったし僕はそれにイントゥーしてきたけれど、彼らのようなタイプは(セカイ系的な地場にも深く関わるであろう)傷の舐め合い的な世界観になることが多くて、まぁアートやシロップにもそういうところは多々あったし、「それで結構!」と言い切ってしまえればよかったのだけれど、僕はどうもそう言い切れなかった。
つまりはメンヘラロキノン聴いてきたのにメンヘラロキノンは嫌だ卒業するもんだわこれ!みたいになっているわけなんだけど。でも、かといってこう、日本のアンダーグラウンド的なアプローチの人といえばいいのかな(かまってちゃん/大森)はどうもしっくりこないことあるんだよという話。


で、それとは別に、「別にいいたいことなんて何も無い。やりたいサウンドがあるだけ」というタイプ(この国ではずっとその手のものは「洋楽的なバンド」とか言われてきた)も好きなんですよねという。7年前ならシガベッツやリリーズ、テレフォンズとか。
2000年前後のエアジャム系もそれに含む。やっているほうは別として、当時の多くのハイスタのリスナーが歌詞を真面目に読んでいたとは思えない。
結局歌詞は自分語りになってしまうんだから、そんな気持ち悪いことには興味が無いんだ、俺は音楽がやりたいだけだから。というスタンスはそれはそれで素晴らしいと思う。例えばエアジャム時代には(例え下手でも)英語で歌う事自体に意味があったはずだし、何度も「歌謡」的なもの、保守的な流れに引き戻されてしまう(ことの是非は置いておくこととして)この国の音楽シーンにおいて、そういう「歌詞<サウンド」スタンスのバンドが新しい風を入れてきたことも確かだと思う(ちなみに現在における「保守的な流れ」は、ロックでいえば「ロキノン系ギターロック」です)。

それで、昨今のシティポップに類されるバンドの多くはその「歌詞<サウンド」スタイルのテン年代版だと思っていたのです。もちろんそうでないバンドもいるので、多分僕の早とちり、見立て違いなのでしょうけど…。
歌詞と言うより言葉自体に意味を持たせようとしがちなバンド、そうはしないバンド、とか言う方が正確か。まぁ、どっちもやれ!で良いんだけど、どっちもやるよ!でいいんだけど。かまってちゃんや大森に「どっちもやっとるわボケ!」と言われても何にも反論できないし。
でもまぁリスナーがそう受け取りがち、そういう部分を愛しがち、というのはあるでしょう。シガベッツの歌詞が大好きで大好きで!みたいな人はいるかもしれんけど少数でしょ。ちゃんと訳詞読んでるよ!とか、そういうことじゃない。それくらいならする。
この手の話はアレか、結局日本語ロック論争か。くどくど言ってすまんかったな。(悪いとおもってません)(いやでもヨギー含めシティポップは日本語で歌ってるんだよな。でもあったじゃん。サカナクション相対性理論、的なさ(前者は言いたいことがありそうで無い、後者は言いたいことがなさそうで実はある、というツイートに昔唸ったことがあります)

 

で、先ほどの件は、なんつーか、(これはディスになるかもしれんけど…)ヨギーのようなスタイルのバンドは、大森が「「それでも音楽は…」の先があるだろうが!」と言っても、全く理解できないんじゃないか?みたいな。
「スタンスの違い乙」で終了な話だけど、本当にヨギーはピンと来ないのでは?みたいな(のはヨギーに失礼過ぎる)。でも「いやそれを鳴らしてるのが俺達でしょ、だからわざわざ「音楽は魔法だ」と言ったのだ」と本気で思っている可能性もあるのでは?とか。
まー、そうならヨギー見直しますけどね(そんなに嫌いではない、知り合いが最近よく褒めているので…)。

 

英語詞メロコアの人たちが「やっぱ歌詞だよ!」となって日本語詞歌ったらファンから総スカン喰らった、てのはたくさん見てきた。ファンの求めているところは言葉よりサウンドだった、それに今までそのスタンスで来たバンドが急に書いても、説得力ある歌詞を書く力が無かったという話だ。
たいていの好きなバンドは「音も言葉も好き」だしアートやシロップもそうだったし(とはいえやっぱり歌詞を評価するファンが多いと思うよ)歴史を動かしてきたバンドは常にそうだったはずで、「どっちもやれ」で済む話だけれども、実は「どちらかしか聴けない」リスナーが多いのでは?と思いました。
洋楽ファンと邦楽ファンの深い溝ってそこなのでは?とも思うし、やはりどちらかに絞ることによってファン層の狙いが定まる、みたいなところはあるんじゃないかと。
でもだからこそ、いやだからこそどちらもだし、For Tracy Hydeが凄いのはそこなんだと思うわけですよね。サウンド志向の人は、いい歌詞書きたくてもそっちの脳が発達してないから書けない、みたいなこと往々にしてあると思うのね。そこがFTHは違う。

 

追記。

関係あるかないかわからんけど、ドラゴンアッシュの話も思い出した。まぁそこ出すならミッシェルとかも話に出さないといけないかもしれんけど。

外山恒一ドラゴンアッシュのことを若い世代における(自分にとっての)ブルーハーツのような存在かと思ったけどよく聴いたら違ったわ、みたいな話があったはずなんだけど(クソうろ覚えなので信用するな)それも結局たしか、めっちゃメッセージのあるようなことを歌っているようで実は中身無いじゃん的な話だったような。んで、これに被る印象なのが田中宗一郎の「Viva la revolutionと歌っても何も変わらない。」みたいに言ってたことなんですよね。いやだから何って話だけど、ドラゴンアッシュはハイスタとかと同じタイプで音楽スタイル・サウンドそのものが革命的でアティチュードだったんだっていう。