映画とミーハー

ミーハーが最強だと常々言っているけども、自分はずっと流行に疎い人間だったわ、と気付いた。

周りに映画を良く見る人が多くて、そんなに映画館って身近な存在なのか、俺がおかしいのかと考えてしまうし、映画館に行かない俺のような人間を映画業界や映画ファンは危惧しているんだろう。
とはいえ、かつてはそこそこレンタルで映画を見ていたのだけど、アクションとかハリウッドの有名なものとか全然見ないし興味がなく、いわゆるサブカルくさいものを摂取してきたっぽいのだが、周りの人間(職場)と全然話が合わなくてね。
ゲオやツタヤに行ったら、観たい映画はたくさんあるけども、これ絶対見ないなっていうのも多くって、それは単純にアクションとかホラーとか恋愛とかそういう「ジャンル」の話なのかもしれないけど、なんつーか、別に流行っている映画が面白くないってわけでもなくて、そもそも俺は踊る大捜査線ハリーポッター君の名は。も好きなんだけど、完全に矛盾してるけどいままで考えてみれば流行を追ったことのない人間で、音楽も広い意味では2010年以外は流行を追わなかったといえるし、映画も音楽も過去を掘り返すことに興味があるのかもしれないなと思った。
話は違うけど、素晴らしい女優さんも素晴らしい映画で素晴らしい役を演じたかと思えばその一方でクソみたいな映画にも出ているわけだけど、パッケージ見ただけでわかるような、人気俳優女優のプロモにすぎないような毎年量産されているクソ映画も結局ミーハーな人に需要があるのだろう。アニメもそうだよな(そういうものあってアニメに疲れてしまった感はある)。俺がクソだと思う音楽や映画も、常に、何も知らない若い人や最先端を追うミーハーな人に需要がある。

メジャーのアーティストは毎年アルバムを作らされるのもそういうことなのだろう。俺は、そういうチープでチージーなものこそ愛すべき、くらいの気概があった気がするが、今日はずっと聴ける完璧な「名盤」や大事に時間をかけて作られてきた作品を摂取したいし、一度くらいは自分でそう呼べるものを作ってみたいな、とも思った。

ロックミュージックは工業製品なのか、そうあるべきなのか

老害のような嗜好になってしまった自分に嫌気がさすのだが、今現在のいわゆる「ロキノン系」と呼ばれるような、その中でもギターロックと呼ばれるようなバンドに殆どピンと来たことが無い。

国内の、上の世代のロックバンドの影響しかないことが一聴してわかるもの、しかしそのパーツ(影響された部分)の組み合わせ方とクオリティーが非常に高い、みたいなものを聴くと、今僕が10代だったらハマっていただろうな…という想像は出来るけどもおっさんになった今の自分には当然刺さらない。(ロックなんて、音楽なんてそんなもんだろという意見はひとまず置いておかせてほしい)

 

そのジャンルのマーケット対象年齢を超えてしまったというだけ、自分が好きじゃないならそのジャンルから離れればいいじゃん、という話ではあるのだがどうしてもyoutubeで多少はチェックしてしまう。

そこでよく関連動画に出てくるのがポルカドットスティングレイである。

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顔立ちの整った、しかもコスプレも辞さないサービス精神を持つグレッチをぶら下げた女性ボーカル、高速カッティングと滑らかな歪みによるギターソロをドヤ顔でキメるイケメン風お兄さんギタリスト、高速と中速を使い分ける正確な四つ打ちドラム、10代の心をくすぐるであろう「ここ!」というポイントで入るハンドクラップなどなど……そしてとにかくPVのボーカルのあざとすぎる可愛さとPVのエンターテイメント性(サービス性というか)、でもちょっと病んでそうな感じ、椎名林檎を濾過したような、しなやかなボーカルとなんだかんだキャッチーなサビのメロディ……。

 

テキトーに書いてしまったがこんな感じだ。

正直最初は、自分が国内ギターロックに感じている違和感だけをてんこ盛りにしたような、嫌いな部分だけが詰め込まれたバンドのように感じて抗体による拒否反応が起きた。「シンクロシニカ」とかイントロから「やめてやめてやめて!」って感じ。

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別に俺は地〇室〇イ〇スの真似事をしたいわけじゃない。とはいえ、なのだ。俺が80年代の洋楽が嫌い過ぎてPVを見まくってたら好きになってきたのと同様、その短髪おねいさんが歌うキャッチーな歌とドヤ顔おにいさんにどことなくハマってきてしまっていたのだ。あざといPV、でもどうせ男は女性のあざとさが大好きなのである。ハマる、とまではいかなくても別に曲自身はよく出来ていて嫌味を感じない、ただ流してて聴けるという印象に変わっていった。あとは、ロックの中にハードロック文脈がほぼ消えてしまった昨今(どっちかというとHR/HM嫌いなので矛盾するけれど)「ギターヒーロー」って産まれにくいのかなと思っているのであのドヤ顔イケメンお兄さんギタリストはギターヒーローっぽくて応援したいな、という感じ。

 

そう思い始めていたところ、このようなインタビューが投下された。

 ポルカ雫が明かす、「結成して2年でメジャーデビューした秘策」

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ゲーム会社勤めの経験を生かし、いかにユーザーが求めるものを提供していった結果がこれだ、という内容なのだがなかなか衝撃的だった。全てマーケティングによる曲作りだという。「"自分の作りたいもの"を作るのではなく、"お客さんが欲しいもの"を提供し続けないと。だってこれは仕事なのだから。ユーザーが求めるものをリサーチしてから手を動かす。ローンチ後もユーザーの声を入念に調べて、次のバージョンアップに反映する。音楽も同じ方法で作っています」

「内から溢れ出る想いや、自分の体験を曲にのせることはない。みんなが欲しいものを作っているだけ」

 

と言い切るその姿は、そりゃあ、メジャー(仕事)としては200%正しい。正しすぎる。でも僕はその発言に少し冷めてしまった(と同時に、なぜここまでポルカがあざとく、ソフィスケートされていて、このような音楽性であるかということが腑に落ちたともいえる)。

自分は、未だにロックバンドに理想や幻想がある、ということも改めて理解した。「自分たちが好きな音楽をやった結果、それが支持されて売れる」というのはただの純粋無垢な理想論だということはよくわかっているつもりだ。ポップミュージックは商品である。メジャーとは、音楽で食っていくということは、音楽を「売る」ということだし、「売る」ということは客のニーズを調査し、それに答えることだ。

でも少しだけロックバンドというものにその理想論を仮託してしまう。

 

ハイスタやミッシェルガンエレファントやドラゴンアッシュのように、海外の音楽を好きなようにそのまま・もしくは和訳して演ったら時代のニーズにすっぽりハマった、というような時代じゃないことくらいわかってる。そして僕の好きなバンドたちがその理想論だけで成立していないことだってわかる。

どんなバンドも、「リスナーが求めているもの」「大衆性」と、「自分たちがやりたいこと」「実験性」の狭間でもがいてきた。僕が言いたいのは、せめてもがけよ!ということなのだ。(思いつくところを挙げているだけだが)イエモンアジカンストレイテナーもミイラズもテレフォンズもゼペットストアも(チョイスが…笑)、多分きっとU2だろうがオアシスだろうがフーファイターズだろうがストロークスだろうがレディオヘッドだろうが……、そのはざまで揺れ動きながら、それでも自分達らしい音楽を提示し続けているから素晴らしいんだろ?と。

 

そういう意味では「アジカン大好きです!オアシス?ローゼズ?知りません!」と言って出てきて高速四つ打ちやるカナブーンのほうが可愛げがあった。彼らが高速四つ打ちする理由は自分達の(リスナー)感覚としてそれが気持ちいいからだ(多分そういうことを発言したインタビューがどこかにある。探すのはめんどい)

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僕は昨今の(ってもう流行ってないか?)高速四つ打ちは「フェスで客を盛り上げなくてはならないから多くのバンドが多用している」みたいな言説には少しだけ疑問を持っていて、彼らにそんな戦略なんてものはなくただ自分達の感覚においてあのスピードが「気持ちいい」からやっているのだと思っていた。いわば意図的では無くて天然。天然だからこそタチが悪いと思っていた。カナブーンのその、ロックミュージックの世界に無知なだけの純粋無垢な当初のインタビューがそれを象徴していると思ってた。

 

だがポルカドットスティングレイは違った。僕は最初、素で椎名林檎大好き女がグレッチぶら下げて巻き舌で歌っていると思っていた(実際に好きではあるんだろうけど)。「高速四つ打ち」に意図的かはさておいて、彼らの音楽性が全て、若いリスナーが望むものの具現化であり「狙い通り」であったという事実にがっかりしたし、そして腑に落ちたし、そしてある意味こうも考えられる。その商業性、工業製品として振り切った姿が僕を少し「おっ?」と、これ結構良いのか?と振り向かせたのかもしれない、俺はそれをどこか感じ取っていたからPVを見続けているのかもしれない……。

それと、雫さんに「せめて「歌詞や曲は全て私自身の感情や経験から生まれたものです」みたいに身を切るロックバンド演じろよ!とは言わない。今の時代、そこを演じないほうがウケるだろうし。みんなリアル(ドライであろうとも)が知りたいと思うし、ロックバンドに物語や純粋性を求める自分としては、そんなウソをついてまで取り繕って欲しいわけではない(ツイッターでこの話題をしたとき、「取り繕ってほしいのか?」という声もあったので)。

ま、2010年代の国内ギターロックの完成系は初期のKana-boonとこのポルカドットだな、という確信。

 

最近ミソジニーとかポリコレとか言ってるけど俺が悩んでいるのは多分マイクロ・アグレッションだわと思ったが違った

ここ数か月でポリコレの波襲来みたいな感じを勝手に受けていて、現実ではそんなこともちろん言わないからネットでは言わせてくれよ的なことが完全にダメになってきているけどそりゃあネットの世界も現実ですから当然ですよね、となりました。みなおかめちゃイケもそりゃあ終わるわなって。

 

 

戸田真琴さんのコラムはちょいちょい読んでたけど、初めてゴジラ評を読んで。(知らん奴はググれ)

戸田真琴さんほんと凄いゴジラ評だけど「本当に命を削って生きているかな?できることをさぼってはいないかな、【誰か】にとってじゃなくて、【自分】に対して恥ずかしい生き方はしていないか」と思ってる人がAV女優になってわざわざAVで処女を消失する、というのすごくいろいろ考えてしまう…。

こういう考え自体がAV女優を蔑視しているでしょって自分で思ってしまうんだけど、いや俺は本当にAV女優さんが好きだし救われてきたし職業に貴賤はないでしょって思うんですけど、ほんとう、難しいんですけどこの評判を知って戸田さんの作品を見たし。

 

話は違うけど、10代後半からずっととあるAV女優さんが好きで、映像はみたことなくてネット(携帯いじってた高校時代から)で画像だけずっと集めてて(一時期は画像のほうが興奮できました)。もう崇拝に近くなって。好きすぎて興奮しなくなるくらいで。僕が10代の頃ってモー娘。とかグラビアアイドルとかが全盛で、もちろん綺麗な有名な女優さん(普通のね)とかもいたけど、そういうものに一切ハマったことがなくて(だから大人になってから女性声優に行ってしまうんですけど…)しいて言うならAV女優なんだろうなっていう。
それである時エロビデオ屋でそのAV女優さんの復刻版ベストが出てて、これだけは持っておかないとな、俺を救ってくれた人だし、それこそ好きなバンドの廃盤のアルバムを買うみたいな感覚で、買ったんです。で、見たんですけどあまり良くなくて。キャラすげー作ってて。動画と画像じゃ違うよねっていう。
そこで僕の青春は終わりました。その女優さんの画像は未だに好きだし、動画もたまーに探して興奮したりしなかったりしますが、だいぶ幻想が覚めて。買ったDVDはパケ写が可愛いんで宝物として取っておきますけど。

ちがうちがう、こんな事が言いたいんじゃなくて、こういう場合、この女優さんにお金が行かないんですよ。売ってるレーベルにはお金入るけど。レーベルに入ればそのお金でレーベルが作品をまた作るから、っていうのはわかるんですけど、
音楽に例えれば解散後のベスト盤の売上がバンドのシンガーには行かないってことだと思うんで、引退したAV女優さんの復刻版とか編集版とか出たときに、その女優さんにお金が行くシステムにしてくれよって話でした。

最近たいして性欲無いのにAVの話するのは、というか最近のAV女優さんの名前を若干チェックするようになったのは戸田真琴さんがきっかけだし、僕は物語主義者なのでこういうパーソナルを持った戸田さんがこういうプレイをしている、というところに興奮を覚えて(覚えるようにして)います。「物語(戸田さんのパーソナル)で興奮を覚えるようにしている」というのは、戸田さんの文章やコラムはそういう戦略の一環でもあると思うし、戦略に乗っかるのが受け手として正しいでしょうという感じです。せっかくこちらに下劣な妄想が捗るような文脈を提示して頂いているわけですから…。

 

俺はどこまで身を切って性癖を晒さなければならないんだ?と気が狂ってきますが、そういうところと俺の美意識というか、女性の仕草や身体の曲線の美しさみたいなことは僕の作詞とも多少関わってくるわけで、結局死とセックスしか歌わない教信者なのでこういうことを書き残しています…

 

母親が絵画が好きでよく展覧会に連れていかれて(今は僕が連れて行ってます)幼い僕は裸婦像を見て母に「なんで裸を描くの?」と訊いたんです。母は「綺麗だからでしょう」と答えました。今も母は覚えていると思います。僕はその時よく分からなかったんですが、大学時代くらいにルノワールの解説本でルノワールの「ああ、黄金色の乳房!それがなければ私は画家にならなかった」みたいな発言(ほんとに言ったのかよ)見て「おお…」とはなりました、なりましたがァ…。ちなみにアングルはエロおやじだと思います(笑)というか、昔の画家って絶対エロ本として裸婦を描いてますよね?印象派以前は神話や聖書のいち場面を描かなければならなかったわけですが、「これは神話のあのシーンですwww」と言い訳しておっぱい描いてたと思いますし絶対見てる奴は抜いてたと思う。

 

 

たまーに聞くけどさ、ベースの弦が切れるってなかなか信じられないよな

大森、ヨギーニューウェーブスにベース貸すってよ案件(知らない人はググって)からインスパイア(?)されたいくつかの考えの断片をまとめた。

 

 

この心の内側に渦巻いてるものを吐き出して、音楽や世界への愛憎をより過激な形(歌詞を含む)で表現する、という音楽の最近(ここ8年)の最前線が神聖かまってちゃん大森靖子だと思うのだけど、僕は前者は多少好きだったけどそこまでイントゥー出来なかった、というのは少し不幸かなと思ってる。

僕の10代~20代前半で「内側に渦巻いてるものを吐き出して、音楽や世界への愛憎を表現する」音楽はアートやシロップだったし僕はそれにイントゥーしてきたけれど、彼らのようなタイプは(セカイ系的な地場にも深く関わるであろう)傷の舐め合い的な世界観になることが多くて、まぁアートやシロップにもそういうところは多々あったし、「それで結構!」と言い切ってしまえればよかったのだけれど、僕はどうもそう言い切れなかった。
つまりはメンヘラロキノン聴いてきたのにメンヘラロキノンは嫌だ卒業するもんだわこれ!みたいになっているわけなんだけど。でも、かといってこう、日本のアンダーグラウンド的なアプローチの人といえばいいのかな(かまってちゃん/大森)はどうもしっくりこないことあるんだよという話。


で、それとは別に、「別にいいたいことなんて何も無い。やりたいサウンドがあるだけ」というタイプ(この国ではずっとその手のものは「洋楽的なバンド」とか言われてきた)も好きなんですよねという。7年前ならシガベッツやリリーズ、テレフォンズとか。
2000年前後のエアジャム系もそれに含む。やっているほうは別として、当時の多くのハイスタのリスナーが歌詞を真面目に読んでいたとは思えない。
結局歌詞は自分語りになってしまうんだから、そんな気持ち悪いことには興味が無いんだ、俺は音楽がやりたいだけだから。というスタンスはそれはそれで素晴らしいと思う。例えばエアジャム時代には(例え下手でも)英語で歌う事自体に意味があったはずだし、何度も「歌謡」的なもの、保守的な流れに引き戻されてしまう(ことの是非は置いておくこととして)この国の音楽シーンにおいて、そういう「歌詞<サウンド」スタンスのバンドが新しい風を入れてきたことも確かだと思う(ちなみに現在における「保守的な流れ」は、ロックでいえば「ロキノン系ギターロック」です)。

それで、昨今のシティポップに類されるバンドの多くはその「歌詞<サウンド」スタイルのテン年代版だと思っていたのです。もちろんそうでないバンドもいるので、多分僕の早とちり、見立て違いなのでしょうけど…。
歌詞と言うより言葉自体に意味を持たせようとしがちなバンド、そうはしないバンド、とか言う方が正確か。まぁ、どっちもやれ!で良いんだけど、どっちもやるよ!でいいんだけど。かまってちゃんや大森に「どっちもやっとるわボケ!」と言われても何にも反論できないし。
でもまぁリスナーがそう受け取りがち、そういう部分を愛しがち、というのはあるでしょう。シガベッツの歌詞が大好きで大好きで!みたいな人はいるかもしれんけど少数でしょ。ちゃんと訳詞読んでるよ!とか、そういうことじゃない。それくらいならする。
この手の話はアレか、結局日本語ロック論争か。くどくど言ってすまんかったな。(悪いとおもってません)(いやでもヨギー含めシティポップは日本語で歌ってるんだよな。でもあったじゃん。サカナクション相対性理論、的なさ(前者は言いたいことがありそうで無い、後者は言いたいことがなさそうで実はある、というツイートに昔唸ったことがあります)

 

で、先ほどの件は、なんつーか、(これはディスになるかもしれんけど…)ヨギーのようなスタイルのバンドは、大森が「「それでも音楽は…」の先があるだろうが!」と言っても、全く理解できないんじゃないか?みたいな。
「スタンスの違い乙」で終了な話だけど、本当にヨギーはピンと来ないのでは?みたいな(のはヨギーに失礼過ぎる)。でも「いやそれを鳴らしてるのが俺達でしょ、だからわざわざ「音楽は魔法だ」と言ったのだ」と本気で思っている可能性もあるのでは?とか。
まー、そうならヨギー見直しますけどね(そんなに嫌いではない、知り合いが最近よく褒めているので…)。

 

英語詞メロコアの人たちが「やっぱ歌詞だよ!」となって日本語詞歌ったらファンから総スカン喰らった、てのはたくさん見てきた。ファンの求めているところは言葉よりサウンドだった、それに今までそのスタンスで来たバンドが急に書いても、説得力ある歌詞を書く力が無かったという話だ。
たいていの好きなバンドは「音も言葉も好き」だしアートやシロップもそうだったし(とはいえやっぱり歌詞を評価するファンが多いと思うよ)歴史を動かしてきたバンドは常にそうだったはずで、「どっちもやれ」で済む話だけれども、実は「どちらかしか聴けない」リスナーが多いのでは?と思いました。
洋楽ファンと邦楽ファンの深い溝ってそこなのでは?とも思うし、やはりどちらかに絞ることによってファン層の狙いが定まる、みたいなところはあるんじゃないかと。
でもだからこそ、いやだからこそどちらもだし、For Tracy Hydeが凄いのはそこなんだと思うわけですよね。サウンド志向の人は、いい歌詞書きたくてもそっちの脳が発達してないから書けない、みたいなこと往々にしてあると思うのね。そこがFTHは違う。

 

追記。

関係あるかないかわからんけど、ドラゴンアッシュの話も思い出した。まぁそこ出すならミッシェルとかも話に出さないといけないかもしれんけど。

外山恒一ドラゴンアッシュのことを若い世代における(自分にとっての)ブルーハーツのような存在かと思ったけどよく聴いたら違ったわ、みたいな話があったはずなんだけど(クソうろ覚えなので信用するな)それも結局たしか、めっちゃメッセージのあるようなことを歌っているようで実は中身無いじゃん的な話だったような。んで、これに被る印象なのが田中宗一郎の「Viva la revolutionと歌っても何も変わらない。」みたいに言ってたことなんですよね。いやだから何って話だけど、ドラゴンアッシュはハイスタとかと同じタイプで音楽スタイル・サウンドそのものが革命的でアティチュードだったんだっていう。

 

 

音楽以外の話題が無い

人と話すとき音楽以外の話題が無さ過ぎて(アニメもあまり観なくなったし、ゲームや漫画はあまり摂取しない)音楽の話が出来るとほんとうに楽しくなってしまうしそこにもはや人生の喜びすべてを賭けているといっても過言ではないんだけども、音楽以外の趣味を増やさなきゃなと思う。

「音楽馬鹿にはなるな」というようなことをかつてゼペットストアの五味さんがブログで書いていて(記憶違いでなければ)その時はなんで?という気持ちになったのだけれど今なら分かる気がする。

音楽は音楽以外の文化とも密接に結びついているし、音楽家が音楽以外の文化からインスピレーションを受けて創作するなんてこともよくある話だ。ゲームするくらいなら、TV見るくらいなら音楽聴くわ、ギター練習するわ、という気持ちになりがちでそれは正しいのだろうけど(ギターは練習してないけど)きっといろんなもの、日常の生活とか、その他の文化やエンターテイメント的なものと音楽は密接に関わっているんだろう。

オザケンMステと後藤正文の話

18歳で本格的に音楽にハマりだしたので、小沢健二のことをそれまでは「小学生のときにヒットを飛ばしていたJ-popシンガー」程度の認識でしかなかったがそれ以降フリッパーズギターの存在を知り、「フリッパーズってコーネリアス小沢健二なのか…!」と驚くことになるのだが、多くのサブカル野郎どもや音楽ファンが未だに熱狂するほどには入れ込めない自分がいた。そりゃー好きな曲はいくつもあるけども。カラオケで「ラブリー」とか「痛快ウキウキ」とか歌ったりしたこともあるけど。コーネリアスのほうが面白いし、フリッパーズギターのほうが最高だと思っていた。

だって「喫茶店で一人ワインを飲んで酔っ払ってしまった!」とか絶対ありえないし、あまりにもチャラ過ぎる、このインテリチャラ男みたいなのが俺達の一番の仮想敵だろうが!くらいに思ってた。

小沢健二が提示するのはおそらく「ニヒリズムシニシズムへの抵抗」だ。ってこれは全てのポップスに言えることなんだろうけど。テレビから流れる音楽に対して、もしくはドラマや映画に対して、愛してるだの夢は叶うだの諦めないでだの抱きしめたいだのありがとうだのうるせーよと思う日がみんなあるだろう(無い、と言い切れる人は本当に幸せだと思う、皮肉ではなく)。俺を愛してくれる人なんていないし、夢は叶わないし、繰り返しの日常に意味は無いし、俺もお前も死ぬ。それが現実だ。まぁそういうネガティヴで虚無的な気持ちになってしまうことがある(し、そういう部分をレペゼンしてくれた日本のギターバンドに僕はイントゥーしていくわけだけど)。でも、それを分かったうえで、それに対して精一杯抵抗していくという、「そうじゃない。音楽は素晴らしいし人の愛というものは素晴らしいんだよ、生活というのは素晴らしいんだよ!そうだろ!」というような、まぁそれがポップ・ミュージックだと俺は思うんですけどそれをあの精緻な情景描写やユーモアやサウンドで小沢健二はやろうとしているわけです、たぶん。たぶんね。

というところまでは頭では理解しているものの、やっぱチャラくて明るすぎやしませんか~~~~というのが僕の印象で、多分やりたいことの根本は中村一義と同じなんじゃないかと思っているんですけど、中村一義も最初聴いたとき「思ったより明るいやん…」と思ったものの、理解できたんですよね。

あと、上記のようなことが詰まっているのが「天使たちのシーン」だと思うんですが(これは今聴き直しても)この内容を歌うには曲が長すぎるし、精緻な情景描写が分かるようで分からんし、俺は既にシニシズムへの抵抗を3~4分で歌ってくれるロック/ポップスをいくつも知っているわけで、う~~んとなってしまってました。

 

ま、そんな印象を持っていたんですけど(この間の、というかだいぶ時間経ってるけど)復活後オザケンMステ出るとのことで、まぁ、見るわな。期待はしないけど。

いいとも終了直前のテレフォンで歌うオザケンも当然チェック済だが、歌い方も変わってたしこんなもんだよなーという感じで。

 

しかし……衝撃でしたね。

興奮して汗だくになってしまいましたよ。

聴きました?「流動体について 」。

これCD買ってもいいな、買ってないけど。

いやーマジ、もうどこから語ればいいかわかんないけど、私はそもそもアジカン・カンフー・ジェネレーションとかいうクソダッサいバンドの信者レベルのファンなのだけど、「後藤正文さん、あなたが歌いたいこと全部歌われてますよ」って感想なんですよ。

 

まず冷静な情景描写のAメロから核心に入っていくサビとかもそうだけど、

「だけど意思は言葉を変え/言葉は都市を変えていく」

とかはアジカン「マーチング・バンド」の「光れ/言葉よ/それが魂だろう」だし(もっというとサカナクションにも曲名は忘れたが「正直/諦めきれないんだ言葉を」「今ライズしたんだ/意味が跳ねて/ライズしたんだ」という一節がありほぼ同様の意味だと思う。

「ほの甘いカルピスの味が/現状を問いかける」

なんて、アジカンアネモネの咲く春に」の、現代のシステムの摩耗をぽつぽつ語った後の「コーヒーは今日も苦いです/敬具」というパンチラインへのアンサーじゃん!アンサーじゃん!(特に意味なく2回言いました)

 

全盛期の小沢健二がレペゼンしている思想のようなもの、すなわち、「宇宙」のような大きなものと「自分たちの日常」みたいなミニマルなものを一直線に繋ぐ、ということが完全にこの新曲でも行われていて、むしろそれは明確に提示されている。それにこの衰えた声もめっちゃいい。むしろエモい。そしてサビの「なかったのならぁ~~~~~↑↑↑↑↑↑↑↑」とかいうへっぽこなメロ。最高。最高裁判所

 

 

 

ところがMステ終了後のツイッター。 

 

 

 

まぁ、お仕事や音楽活動とかいろいろあるのは分かった上で言いますが、あなた小沢健二を舐め過ぎでしょ。復活後のオザケンを舐めすぎでしょ。

後藤正文さん、「流動体について」はあなたが書きたかった歌詞、書くべき歌詞を完全に書いてます。猛省してください。

 

ダイブ練習会でもすればいいんじゃね?

このブログのネタ用に、ツイッター見てて思ったこととかをメモするんだけどその一番上に「ダイブ練習会でもすればいいんじゃね?」と書いてある。うむ。何のことか忘れてしまったぞ……。

たしか(私があまり興味のない)若手バンドがなんかの練習会だから講習会だか開くみたいな話だったような、モッシュ講習会だったっけ?でも検索しても全然ヒットしない……。

ということでネタには鮮度があるよなって話だが、とにかく最近ライブマナーが問題になってきていてそりゃあ十年前、エルレガーデンやビート・クルセイダースが闊歩していた時代にもいろいろありましたよ。ほんと歴史は繰り返すわけです。エルレのライブ動画で途中でライブ止めるやつとかあるじゃん。知らん奴は探せ。ビークルはライブの前にいちいちおもしろおかしく「ダイブは危険だからね~怪我しても責任とれないよ~」みたいな漫談を流したりしてた。毎回客席にダイブしてたストレイテナーのシンペイもダイブ止めた。アジカン後藤とかアート木下とかダイブしなさそうな人達ですらステージから客席に飛び込んでたからね。時代。

「エアジャム時代のキッズはダイブ上手かったけどエルレが売れて今までj-popしか聴いてこなかった層が突然入ってきて下手な奴が増えた」とかいろいろ言われてましたよ。

 

ま、だから人気バンドがライブも兼ねた「ダイブ練習会」でも開けばいいんじゃねーの?それはそれで企画として面白いだろうし。とか考えてみたのですが練習会する時点でそれってロックなのか?みたいにも思うし、完全に様式美としてしかダイブが機能してないな、とも思うので(ライブが素晴らしい→客が盛り上がる→盛り上がりすぎてついついダイブorモッシュしちゃう、というのがいくら形式的とはいえあってほしくないですか?)。

 

別に私としては、そういうものをライブ映像で見る分には好きですが自分が飛んだりはしないし(フェスでモッシュや左廻りに巻き込まれたことはある)そういうのがよく起こるメロコアやラウド系のライブにも行ってないので割とどうなってもいいんですけど、横山健みたいなアーティストのライブでダイブ禁止されたらそりゃあ横山も商売あがったりだし、ロッキンジャパンフェスみたいに完全禁止っていうのもどうなんだって話で、この間のムジカかなんかがかかわってるフェスの態度(名前忘れた)は私はなかなか良いと思ったのですけどね。基本的に暗黙のルールなので「飛ぶ奴は気を付けて、支える奴は協力する、ヤバそうなやついたらみんなで助ける、それで楽しくやる」みたいな非常に曖昧なもので成り立っているわけで、でもそれを美徳としているわけじゃないですか。大げさに言えばそれがロックミュージックが提示する「自由」というものだったわけですよ。そうじゃなかったら「モッシュは客席5列目までは肩が触れ合うまでならセーフ、当たった人間が衝撃を感じたらアウト」みたいな厳密な成文法を作らなきゃならなくなるわけですから。それってロックなの?それって音楽なの?っていうことだったんじゃないですかね。

 

練習会の話に戻りますが、練習会がいくら茶番だとしてもやらなきゃいけない時代に入ってきているのかもなとも思う。だってフェスで完全禁止でしょう?このままだと多分なくなるよ。モッシュとかダイブとかいうカルチャーが。「そんな悪しき風習カルチャーでも何でもないやん、無くなればいいやん」という人達もいるでしょう。それはそれで私はかまわない。だってそういうのが激しく起こるようなライブ行かないから。でも、一介のにわかロック・ミュージック・ファンとして、ハードコア・パンクとかのシーンから生まれたであろう、血気盛んな若者たちが生み出したであろう(当時としては)新しい音楽の楽しみ方が今まで受け継がれてきて、それはやっぱカルチャーじゃね?と。私も以前「危ないから止めればいいんじゃない」と思ったんですがマキシマムザ亮君が「ソバやラーメンはズバズバ音立てて食うのが一番美味い。食べ物にはそれぞれ美味い食べ方がある。もちろん「私はラーメンをいちいち蓮華の中にちょっとずつ入れて音立てず食べますのよ、おほほ」みたいな上品な人が居ていいしそれでもラーメンは美味いんだけど、俺はズバズバ食うのが一番美味い食い方だと思う」(意訳)というような例えでモッシュ・ダイブを説明していて、現場でそれが当たり前だった人たちの感覚なんだろうなと思います。

 

あ、あとさっきのビークルのダイブ禁止漫談みたいな話ですがそれについて友人が「ビークルはダイブ禁止派だからね」って言ってたんですけどそうじゃなくてもう彼らとしては、エアジャム時代の常識は通用しない、時代が変わってしまったんだっていう、だからもう俺たちは怪我されても責任とれませんよっていう断腸の思いでこれやってるわけで、禁止派とかそうじゃねーんだよな~と当時思いました。

 

あと最後に(「あと、という書き出しが多くなるクセを直したい)このブログは思ったことを素直に書く場にしたいので書くと、「ダイブやモッシュが嫌なら前のほう行くなや」というのが自分の(素直な)考えです。考えというか、自分にはそのルールを適用しているって話。他人に押し付けるつもりはないけど。だって俺嫌だから行かないもん。「メロコアやラウドな音楽」を「前の方」で観る、というのは自分にとって「ボコボコにされる」と同義であって、それくらい気合いと勇気が必要な世界だという認識なのです。とはいえ体格的な問題で女の子にはそうは言ってられんよな。私はやせっぽちとはいえ男性なので「しかたない、せっかくだからボコボコにされるか…」という(マゾヒスティックな)選択もあるわけですが(さっきからずっと言ってるけど全然そういうライブ行かんけどね)。

 

柄にもなくマナー的な話を書きましたが、私はそれよりも客みんなが同じところで手を上げたりする妙な一体感のほうが違和感があるんですけどね。違う話でしたね。