音楽以外の話題が無い

人と話すとき音楽以外の話題が無さ過ぎて(アニメもあまり観なくなったし、ゲームや漫画はあまり摂取しない)音楽の話が出来るとほんとうに楽しくなってしまうしそこにもはや人生の喜びすべてを賭けているといっても過言ではないんだけども、音楽以外の趣味を増やさなきゃなと思う。

「音楽馬鹿にはなるな」というようなことをかつてゼペットストアの五味さんがブログで書いていて(記憶違いでなければ)その時はなんで?という気持ちになったのだけれど今なら分かる気がする。

音楽は音楽以外の文化とも密接に結びついているし、音楽家が音楽以外の文化からインスピレーションを受けて創作するなんてこともよくある話だ。ゲームするくらいなら、TV見るくらいなら音楽聴くわ、ギター練習するわ、という気持ちになりがちでそれは正しいのだろうけど(ギターは練習してないけど)きっといろんなもの、日常の生活とか、その他の文化やエンターテイメント的なものと音楽は密接に関わっているんだろう。

オザケンMステと後藤正文の話

18歳で本格的に音楽にハマりだしたので、小沢健二のことをそれまでは「小学生のときにヒットを飛ばしていたJ-popシンガー」程度の認識でしかなかったがそれ以降フリッパーズギターの存在を知り、「フリッパーズってコーネリアス小沢健二なのか…!」と驚くことになるのだが、多くのサブカル野郎どもや音楽ファンが未だに熱狂するほどには入れ込めない自分がいた。そりゃー好きな曲はいくつもあるけども。カラオケで「ラブリー」とか「痛快ウキウキ」とか歌ったりしたこともあるけど。コーネリアスのほうが面白いし、フリッパーズギターのほうが最高だと思っていた。

だって「喫茶店で一人ワインを飲んで酔っ払ってしまった!」とか絶対ありえないし、あまりにもチャラ過ぎる、このインテリチャラ男みたいなのが俺達の一番の仮想敵だろうが!くらいに思ってた。

小沢健二が提示するのはおそらく「ニヒリズムシニシズムへの抵抗」だ。ってこれは全てのポップスに言えることなんだろうけど。テレビから流れる音楽に対して、もしくはドラマや映画に対して、愛してるだの夢は叶うだの諦めないでだの抱きしめたいだのありがとうだのうるせーよと思う日がみんなあるだろう(無い、と言い切れる人は本当に幸せだと思う、皮肉ではなく)。俺を愛してくれる人なんていないし、夢は叶わないし、繰り返しの日常に意味は無いし、俺もお前も死ぬ。それが現実だ。まぁそういうネガティヴで虚無的な気持ちになってしまうことがある(し、そういう部分をレペゼンしてくれた日本のギターバンドに僕はイントゥーしていくわけだけど)。でも、それを分かったうえで、それに対して精一杯抵抗していくという、「そうじゃない。音楽は素晴らしいし人の愛というものは素晴らしいんだよ、生活というのは素晴らしいんだよ!そうだろ!」というような、まぁそれがポップ・ミュージックだと俺は思うんですけどそれをあの精緻な情景描写やユーモアやサウンドで小沢健二はやろうとしているわけです、たぶん。たぶんね。

というところまでは頭では理解しているものの、やっぱチャラくて明るすぎやしませんか~~~~というのが僕の印象で、多分やりたいことの根本は中村一義と同じなんじゃないかと思っているんですけど、中村一義も最初聴いたとき「思ったより明るいやん…」と思ったものの、理解できたんですよね。

あと、上記のようなことが詰まっているのが「天使たちのシーン」だと思うんですが(これは今聴き直しても)この内容を歌うには曲が長すぎるし、精緻な情景描写が分かるようで分からんし、俺は既にシニシズムへの抵抗を3~4分で歌ってくれるロック/ポップスをいくつも知っているわけで、う~~んとなってしまってました。

 

ま、そんな印象を持っていたんですけど(この間の、というかだいぶ時間経ってるけど)復活後オザケンMステ出るとのことで、まぁ、見るわな。期待はしないけど。

いいとも終了直前のテレフォンで歌うオザケンも当然チェック済だが、歌い方も変わってたしこんなもんだよなーという感じで。

 

しかし……衝撃でしたね。

興奮して汗だくになってしまいましたよ。

聴きました?「流動体について 」。

これCD買ってもいいな、買ってないけど。

いやーマジ、もうどこから語ればいいかわかんないけど、私はそもそもアジカン・カンフー・ジェネレーションとかいうクソダッサいバンドの信者レベルのファンなのだけど、「後藤正文さん、あなたが歌いたいこと全部歌われてますよ」って感想なんですよ。

 

まず冷静な情景描写のAメロから核心に入っていくサビとかもそうだけど、

「だけど意思は言葉を変え/言葉は都市を変えていく」

とかはアジカン「マーチング・バンド」の「光れ/言葉よ/それが魂だろう」だし(もっというとサカナクションにも曲名は忘れたが「正直/諦めきれないんだ言葉を」「今ライズしたんだ/意味が跳ねて/ライズしたんだ」という一節がありほぼ同様の意味だと思う。

「ほの甘いカルピスの味が/現状を問いかける」

なんて、アジカンアネモネの咲く春に」の、現代のシステムの摩耗をぽつぽつ語った後の「コーヒーは今日も苦いです/敬具」というパンチラインへのアンサーじゃん!アンサーじゃん!(特に意味なく2回言いました)

 

全盛期の小沢健二がレペゼンしている思想のようなもの、すなわち、「宇宙」のような大きなものと「自分たちの日常」みたいなミニマルなものを一直線に繋ぐ、ということが完全にこの新曲でも行われていて、むしろそれは明確に提示されている。それにこの衰えた声もめっちゃいい。むしろエモい。そしてサビの「なかったのならぁ~~~~~↑↑↑↑↑↑↑↑」とかいうへっぽこなメロ。最高。最高裁判所

 

 

 

ところがMステ終了後のツイッター。 

 

 

 

まぁ、お仕事や音楽活動とかいろいろあるのは分かった上で言いますが、あなた小沢健二を舐め過ぎでしょ。復活後のオザケンを舐めすぎでしょ。

後藤正文さん、「流動体について」はあなたが書きたかった歌詞、書くべき歌詞を完全に書いてます。猛省してください。

 

ダイブ練習会でもすればいいんじゃね?

このブログのネタ用に、ツイッター見てて思ったこととかをメモするんだけどその一番上に「ダイブ練習会でもすればいいんじゃね?」と書いてある。うむ。何のことか忘れてしまったぞ……。

たしか(私があまり興味のない)若手バンドがなんかの練習会だから講習会だか開くみたいな話だったような、モッシュ講習会だったっけ?でも検索しても全然ヒットしない……。

ということでネタには鮮度があるよなって話だが、とにかく最近ライブマナーが問題になってきていてそりゃあ十年前、エルレガーデンやビート・クルセイダースが闊歩していた時代にもいろいろありましたよ。ほんと歴史は繰り返すわけです。エルレのライブ動画で途中でライブ止めるやつとかあるじゃん。知らん奴は探せ。ビークルはライブの前にいちいちおもしろおかしく「ダイブは危険だからね~怪我しても責任とれないよ~」みたいな漫談を流したりしてた。毎回客席にダイブしてたストレイテナーのシンペイもダイブ止めた。アジカン後藤とかアート木下とかダイブしなさそうな人達ですらステージから客席に飛び込んでたからね。時代。

「エアジャム時代のキッズはダイブ上手かったけどエルレが売れて今までj-popしか聴いてこなかった層が突然入ってきて下手な奴が増えた」とかいろいろ言われてましたよ。

 

ま、だから人気バンドがライブも兼ねた「ダイブ練習会」でも開けばいいんじゃねーの?それはそれで企画として面白いだろうし。とか考えてみたのですが練習会する時点でそれってロックなのか?みたいにも思うし、完全に様式美としてしかダイブが機能してないな、とも思うので(ライブが素晴らしい→客が盛り上がる→盛り上がりすぎてついついダイブorモッシュしちゃう、というのがいくら形式的とはいえあってほしくないですか?)。

 

別に私としては、そういうものをライブ映像で見る分には好きですが自分が飛んだりはしないし(フェスでモッシュや左廻りに巻き込まれたことはある)そういうのがよく起こるメロコアやラウド系のライブにも行ってないので割とどうなってもいいんですけど、横山健みたいなアーティストのライブでダイブ禁止されたらそりゃあ横山も商売あがったりだし、ロッキンジャパンフェスみたいに完全禁止っていうのもどうなんだって話で、この間のムジカかなんかがかかわってるフェスの態度(名前忘れた)は私はなかなか良いと思ったのですけどね。基本的に暗黙のルールなので「飛ぶ奴は気を付けて、支える奴は協力する、ヤバそうなやついたらみんなで助ける、それで楽しくやる」みたいな非常に曖昧なもので成り立っているわけで、でもそれを美徳としているわけじゃないですか。大げさに言えばそれがロックミュージックが提示する「自由」というものだったわけですよ。そうじゃなかったら「モッシュは客席5列目までは肩が触れ合うまでならセーフ、当たった人間が衝撃を感じたらアウト」みたいな厳密な成文法を作らなきゃならなくなるわけですから。それってロックなの?それって音楽なの?っていうことだったんじゃないですかね。

 

練習会の話に戻りますが、練習会がいくら茶番だとしてもやらなきゃいけない時代に入ってきているのかもなとも思う。だってフェスで完全禁止でしょう?このままだと多分なくなるよ。モッシュとかダイブとかいうカルチャーが。「そんな悪しき風習カルチャーでも何でもないやん、無くなればいいやん」という人達もいるでしょう。それはそれで私はかまわない。だってそういうのが激しく起こるようなライブ行かないから。でも、一介のにわかロック・ミュージック・ファンとして、ハードコア・パンクとかのシーンから生まれたであろう、血気盛んな若者たちが生み出したであろう(当時としては)新しい音楽の楽しみ方が今まで受け継がれてきて、それはやっぱカルチャーじゃね?と。私も以前「危ないから止めればいいんじゃない」と思ったんですがマキシマムザ亮君が「ソバやラーメンはズバズバ音立てて食うのが一番美味い。食べ物にはそれぞれ美味い食べ方がある。もちろん「私はラーメンをいちいち蓮華の中にちょっとずつ入れて音立てず食べますのよ、おほほ」みたいな上品な人が居ていいしそれでもラーメンは美味いんだけど、俺はズバズバ食うのが一番美味い食い方だと思う」(意訳)というような例えでモッシュ・ダイブを説明していて、現場でそれが当たり前だった人たちの感覚なんだろうなと思います。

 

あ、あとさっきのビークルのダイブ禁止漫談みたいな話ですがそれについて友人が「ビークルはダイブ禁止派だからね」って言ってたんですけどそうじゃなくてもう彼らとしては、エアジャム時代の常識は通用しない、時代が変わってしまったんだっていう、だからもう俺たちは怪我されても責任とれませんよっていう断腸の思いでこれやってるわけで、禁止派とかそうじゃねーんだよな~と当時思いました。

 

あと最後に(「あと、という書き出しが多くなるクセを直したい)このブログは思ったことを素直に書く場にしたいので書くと、「ダイブやモッシュが嫌なら前のほう行くなや」というのが自分の(素直な)考えです。考えというか、自分にはそのルールを適用しているって話。他人に押し付けるつもりはないけど。だって俺嫌だから行かないもん。「メロコアやラウドな音楽」を「前の方」で観る、というのは自分にとって「ボコボコにされる」と同義であって、それくらい気合いと勇気が必要な世界だという認識なのです。とはいえ体格的な問題で女の子にはそうは言ってられんよな。私はやせっぽちとはいえ男性なので「しかたない、せっかくだからボコボコにされるか…」という(マゾヒスティックな)選択もあるわけですが(さっきからずっと言ってるけど全然そういうライブ行かんけどね)。

 

柄にもなくマナー的な話を書きましたが、私はそれよりも客みんなが同じところで手を上げたりする妙な一体感のほうが違和感があるんですけどね。違う話でしたね。

 

はてぶでやる

何個ブログやってんだって感じですし、メインで書いているブログを終わらせてからはてなに移行しようと思っていたのですが、そっちとは違う路線で書いてしまいたいと思い、作りました。

 

ブログタイトル候補としては「カソウシンジュク・カソウシモキタ」ってのもありましたが某ブログ意識してるなこれ(今気付く)。

 

あくまで仮想です。私自身は田舎都市に住んでいます。「隠遁」で検索すると田舎で隠遁したいみたいな話が出てくるんですがコメ欄で「田舎のほうがしがらみ強いぞ」と言われていたので、都会のほうが隠遁できるんじゃね、と思いました。

 

「s.t.j.k.c.o」は「週末に図書館でジャズ借りてチルアウト」の略です。ジャズは全く分かりませんが、そういう静かな生活をしたいなという話です。

 

はてぶの注釈付けるやり方が今のところ全くわかりません。

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